天照らす、神様
神宮⛩希林
というドキュメンタリー映画を観てきた。
人生の教訓としたいような場面の数々、良かった。
始まって五分でもう魅了されている。
樹木希林さんの自然体の魅力に他ならない。
この人の”素”は、どこか得体の知れないようでいて、なに映画のなかとあんまり変わらんので、そこがいい。
色々と詮索したいような私の性がいけません。
希林さんは伊勢の神様を前にして、なんにも願おうとはされなかった。
天地に起こる災いは、みんな人間のせいだもの。
私はなにも願わない。
他のひとに、譲りましょう。
そんなことを呟きながら、生きることを、納めておられるようだった。
印象深かった、岡野弘彦さんの歌。
”あまりにも静けき神ぞ 血塗られし
手をもてつぐなふ 術をおしへよ”
戦時中。
爆弾を持って敵の戦車のキャタピラに飛び込む訓練ばかりしていた。
帰国した岡野さんが向かう伊勢神宮。
敗戦国のこの若者に神はなにを与えられるかと、三十分も祈ったそうだが、なんにも、果たして答えはなかった。
あまりにも静かな神は、なんにも答えてはくれなかった。
伊勢神宮の社殿はたしかに、隠されている。
私と神様は布一枚で隔てられる。
見えないものにこそ、人は手を合わせる。
最後の”術をおしへよ”というのには、どうか教えてください、というより、教えてはくれないんですね、の語感を思う。
あまりにも、静かな神であるのだから。
岡野さんが東日本大震災を目の当たりにし詠まれたのが
”怒りすら かなしみに似て 口ごもる
この国びとの 性を愛しまむ”
煮えくりかえる怒りを、決して外へ爆発させることなく、日本人は内に秘め、堪えて、かなしみに変える。
辛抱の顔を、日本人にはよく見る。
かなしみは、愛しみと書く。
”かなしいっていうのは、いとしいんです。”
倉本聰先生の、風のガーデンだったか、そういう台詞があったのを思い出した。
この岡野さんの歌は、希林さんはその年の日本アカデミー賞受賞の挨拶で引いておられる。
それほど希林さんの心を射たんでしょう。
終盤、希林さんは鏡について語っておられる。
”心の鏡が曇ったり凸凹ゆがんでいたりしたら、役者は駄目です。
私にもし、もう少し時間があるのならば、胸に鏡を据えて、役者をやっていきたい。”
鏡は人を映すもの。
芝居においての鏡とは。
役が観客を映すのか。
役者が観客を映すのか。
役者が役者自身を映すのか。
役、あるいは役者という鏡を通して見えるものは、一体何なのか。
なにが見えるべきなのか。
今回は、希林さんが希林さん自身を映す鏡を語っておられたと思う。
でも観る人のことを、この人が考えていない訳がない。
丁寧に丁寧に、なにで飾ることもなく生きて、惜しみなく身の周りに心を注ぎ、あははと笑いながら、行ってしまった人だから。
そんな記録に、またいつか。
どこかで、めぐり逢えたら。